毎日毎日食事をしていれば、美味いと感じるものとそうでないものに気付くと思う。
人間の嗜好は、いろいろな要因によって決定される。
経験、学習、それに文化を土台として、香りや外見、その人の遺伝子なんかも、嗜好に影響を及ぼすというレポートも存在する。
特に香りは、味覚に深く関与している。
美味そうな匂いと感じるか、とても食欲をそそらない匂いと感じるかは、その人の嗅覚に寄るところが大きい。
その嗅覚だが、自覚があるかどうかは別として、人にはそれぞれで匂いの「死角」のようなものがある。
専門用語では「特異的無嗅覚症」と言うが、これがなかなか興味深いのだ。
例えば。
世界三大珍味の一つとされているトリュフ。
こいつにはアンドロステノンと言う化合物が含まれるが、これに対する嗅覚能力は、個人差が非常に大きい。
ほとんどの人は、アンドロステノンに対して特異的無嗅覚症があるので、ほかの嗅覚能力に問題が無いにもかかわらず、アンドロステノンの匂いを感じ取ることができない。
感じることの出来る人は、アンドロステノンの匂いを「樹木や花のような匂い」と形容する場合が多いが、特に敏感な人は、ppbレベルの濃度のアンドロステノンさえ知覚し、それを「腐った小便のような匂い」と感じるらしい。
トリュフを見つけるのにメス豚を使うと言うが、実はこのアンドロステノンが、オス豚の性フェロモンだったりする。
去勢されていないオス豚の肉には、このアンドロステノンが高濃度で検出されるのだ。
逆に、早くから去勢されていたり、ワクチンを接種していたりする豚からはほとんど検出されない。
日本の養豚の現場では、オス豚はほとんど去勢されるので、日本で流通されている豚肉には、アンドロステノンの影響はほとんど無いと言っていい。
しかし。
トリュフの本場フランスでは、三割程度のオス豚の去勢やワクチン接種を行わないそうだ。
よって、フランスの豚はアンドロステノン臭を帯びている可能性が高くなる。
去勢されないオス豚にトリュフのソースをかけて、などと言った料理があれば、アンドロステノンの特異的無嗅覚症の無い人には、さぞかしおぞましい香りのする料理だと想像することができるのである。
 
「あー。隆也、またパクチー残してるー」
俗に言うブランチなるものを摂ろうと、弓子と二人で近所のカフェに入った日曜日の遅い朝。
どこかのスポーツ選手を真似て、最近は朝からがっつりカレーを食すなどと言う高血圧な習慣が流行っているらしく、カフェのメニューにも「ちょっぴり辛口タイ風グリーンカレー」なるものを見つけ、それをオーダーしてしまった。
例によってなぁんにも考えずに。
テーブルに現れたカレーの皿を見て鳥肌を立てた。
なんじゃこりゃ。パクチーでカレーが見えん……。
グリーンカレーって、カレーがグリーンなんであって、皿を埋め尽くすパクチーでグリーンな訳じゃないよな。
ごっそり乗っかったパクチーにクラクラしながら、外皿の方に丁寧にパクチーをすくって除けて居た時。
弓子が少し怖い目で俺を見つめてそう言った。
「だって。まじぃんだもん。これ」
「パクチーは体にいいんだよ。
 解毒作用があって整腸剤の役目もあるんだから。
 それに、心臓や脳を強化する効能だってあるんだからねっ」
最近、ハーブにハマっている弓子は、鼻息荒く俺にこの食べ物と思えない代物を食わせようとしている。
「だってさぁ、これの匂い、完璧に石鹸だぜ。
 石鹸食って脳が強化されたって、俺の心が折れてたらどうしようもねーじゃん」
「ちがうでしょ。
 好き嫌いせず、なんでも食べなさいってことだよ」
うー。なんで弓子は俺を食事トレーニングするちびっ子のように扱うんだ!
俺は外皿に乗った膨大な量のパクチーに目をやり、眼前に聳え立つ高い塀を感じつつめまいしていた。
これを食えって。拷問だろそれ。
弓子を無視してパクチーを除けてカレーを頬張る。
美味い。タイ人の味覚もまともじゃん。パクチー無ければ。
食べているのを見ると安心するのか、俺がパクチーを除けているのを、食事中の弓子は気にしなかった。
最近の研究室の様子とか、取っている授業の様子なんかを話しつつ、食事の時間は楽しく進んだ。
が。
「やっぱり隆也、パクチー食べないんだね」
カレーも終盤戦に差し掛かった頃、おもむろに弓子が話題をパクチーに戻した。
俺は、前日のっぴきならない事情で宿題を片付けられなかったのにピンポイントでその問題を指名された中学生のような気持ちで、弓子の呆れた風な顔に目を向ける。
「隆也のために言ってるんだけどな」
弓子は俺の外側の皿(サービスプレートと言うのだろうか。カレー皿を乗せた大き目の皿の上に、俺はパクチーを除けていた)ごと手元に引き寄せると、スプーンでパクチーをつぶし始めた。
しかも、カレーの上で!
「そんなことしたら、残りのカレーが食えなくなるだろっ」
ただでさえボリューム控えめのカフェメニューで、夕飯まで繋げるのはなかなか酷ってもんだ。
俺は慌てて弓子の横行を非難した。
「パクチーの葉っぱはね、ペースト状にすると香りがやわらぐんだよ」
弓子はそう言って、まだスプーンでパクチーを潰している。
かなり一生懸命な表情で。
俺は、俺のために一生懸命になる女の表情に若干の優越を感じながら、それでも俺に毒を(体にはいいかもしれないが、俺にとって不味いものは毒だ)食わせようとする弓子に恐れをなした。
「いいって。不味いもんは不味いんだから」
「そんなの、自分で確かめて結論出しなよ。
 あんた曲がりなりにも科学者の卵でしょ?」
う…。そう言われちゃ、逃げるわけにも行かず。
「はい、あーん」
にっこにこの弓子が差し出すスプーンの上には、グリーンカレーとペースト状のパクチー。
俺は目を瞑ってそのスプーンを頬張った。
くさい!
臭いけど、まぁ、飲み込めないほどじゃない。
俺は口の中のものを一気に嚥下して、ふぅ、と溜め息をついた。
「どーお?」
心配そうな弓子。
「まじぃ」
落胆を浮かべる弓子の表情に「まぁ、さっきよりはましだけど」と慌ててフォローする。
「ホント?」
「ああ。弓子がペーストにしてくれたら、確かにくせーのは少なくなった」
「でしょー? これで隆也の苦手なものひとつ制覇だねっ!」
にっこにこの弓子。
はぁ。ましなだけで美味くなったわけじゃ無いんですけど。
それでも嬉しそうな弓子の笑顔を壊したくない俺は、弓子に気付かれないように、パクチーのペーストを除けて食事を終えた。
俺の中で、パクチーの香りが特異的無嗅覚症の対象だったら良かったのに。
店の人に手を上げて、早々に皿を下げてもらいながら(カレーの緑に紛らせてパクチーペーストを除けていたのを弓子に気付かれたらたまらん)そんな事を頭に過ぎらせる。
およそ苦手な食物と言うのは、その人にとって好ましからざる香りをまとっているものだ。
その香りを感じなくすることができれば、確かに苦手な食物の幅が狭まるだろう。
そんな薬があったら、商品として成功するのかな。
「わぁ、いい香り」
テーブルに運ばれた食後のコーヒーを、鼻先に運んでくんくんと匂いを嗅ぐ弓子。
確かにコーヒーの香りは、ささくれ立った気持ちを和らげてくれる。
俺もカップを手に取って、先ほどパクチーで汚染された嗅覚を復活させるように、思い切り香りを楽しむ。
はぁ。生き返ったぜ。
「コーヒーの香りって幸せな気持ちになれるよね」
にっこにこの弓子を見返して、俺もなんだかほっこり。
コーヒーの香りが特異的無嗅覚症の対象じゃなくて良かった。

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