何度見ても新鮮に驚く光景っていうのはあるものだ。 最近の俺にとっては、ドぴーカンの朝の光の中で見る弓子の髪の色がそれ。 実際、今までの俺の人生中、朝日の中で目にする髪なんて、修学旅行で同室になったクラスメイトの伸びかけたアシメの前髪に茶色入ってるのを見て「こいつ、脱色してんのか?」なんてぼんやり思うぐらいだったし。 弓子の髪は不思議だ。 普通に、日本人にありがちな黒い髪なんだけど、光の当たっている部分は若干赤みを増す。 それでいて、影の部分は緑色を帯びて見える。 弓子は多分、多くの女性の中では硬くて真っ直ぐで、可愛げが無いことこの上ない髪質だったりするんだろうけど。 朝日の中で弓子の髪は、不思議な色彩を帯びて俺の目の前で花開く。 それはまるで、誰の目にも触れずにひっそりと高山の片隅で咲く黒百合のようだ。 目にしたときの驚きを既に予知していたかのような黒…。 俺は知らずに弓子の髪に指を伸ばしていた。 深遠な謎の解析に好奇心いっぱいで手を差し伸べる探究者の常の気持ちを持って。 ありていに言えば、ドキドキわくわくってこと。 「…なぁにぃ? 隆也…? 起きちゃったの?」 うわっ! 焦ったぁっ! なに目ぇ覚ましてんだよ弓子はっ! 俺は今までのドキドキと違う意味のドキドキを伴って、弓子の崩れきった寝起きの顔を見返す。 無防備な奴だなぁ。こいつ。 「あ、ああ。眩しくね?」 とっさにそう言って目を細めた。 ハレーションを起こしそうな朝の光は確かに強い。 けれども、実際のところ俺はその光がいとおしかった。 「眩しいけどあったかいよぉ」 弓子はまたしても目を閉じて、眠そうに大きなあくびを盛大にしてから、俺の胸に額を擦りつかせつつ「もうちょっと寝てようよ。隆也も今日は二限からでしょ?」と呟くように言った。 鼻先に花のような香りが咲く。俺の好きなコンディショナーの香り。 先ほどまで赤みを帯びていた弓子の髪が、直ぐ近くで光を受けて今度は白っぽく見える。 俺は今度こそ弓子の髪に指を通して、朝の光に透けさせてみた。 黒い一本一本が、しっかりとその存在感を主張するかのごとく、光の中で色を放つ。 俺はその生命力が愛しくて、思わず弓子の頭のてっぺんにキスをした。 「なにしてんの? 隆也?」 今度は完全に目を覚ました声の弓子が、俺の胸元から俺の挙動を問う。 「…なにしてんだろうな」 俺は答えに窮して、弓子の髪をただなんとなく指先で梳く。 そんな俺を尻目に、またしても大きなあくびを一つして、弓子はそっと俺を見上げた。 「する?」 …なんと言うか。俺の今の気持ちを素直に代弁してくれるその一言。 俺は遠慮なく弓子の体を抱き寄せて、小さなキスから始まる朝の睦言を心行くまで楽しんだ。 「隆也って朝からタフだよね」 朝だからタフって話もあるが。 俺の隣でくたっと横になる弓子の肩甲骨のふくらみにキスをする。 終わったあとは、なんとなくどこにでもキスしたくなる、最近の俺。 「最近、日も長くなってきて朝起きるのがつらくなくなってきたからなぁ。 早起きは三文のとくって言うし。眠そうにしてたお前を起こしてやったんだ。 ありがたく思えよ?」 ぽふ、と弓子の頭を撫でると、奴はムッとした顔を俺に向けて「隆也、それ、間違ってるよ」と答えた。 「なにが?」 「早起きは三文のとくって。 早起きは体に良くないんだよ」 口を尖らす弓子が言うのはこうだ。 京都の大学、病院関係者らの研究によると、起床時間と心臓血管の状態の間には一定の関連性が認められるらしい。 「早起きをして仕事に出かけたり運動をすることは健康によい影響を与えず、むしろ心臓病の原因になる可能性がある」と研究結果の抜粋は指摘するそうだ。 二十三歳から九十歳までの三千十七人の健康な成人を対象に調査を行った結果、早起きをする人には高血圧症、卒中を起こす可能性が高かったという。 「まぁ、早起きする人は老人に多かったらしいけど。 だから早起きしてこんな事するのは、一番心臓に負担をかけるイケナイ事なんだよ?」 「それはそれは」 確かに朝日の中では多少ハードになるから、心臓に負担をかけるかもしれませんねぇ。 まだキャンキャン言いそうな弓子を、抱き締めて黙らせる。 「隆也」 「だって…明るいところの方がコーフンするんだもん」 「へ?」 弓子は一気に全身を赤く染めて、俺の腕の中で体を硬くした。 わかりやすい奴。 「心臓に負担かけてもいいよ。 それより、弓子が熱くなってるの見ると、俺の脳が活性化するから。 プラマイゼロだろ?」 「変な理論」 くすり、と機嫌を直した雰囲気の弓子。 指に絡まる弓子の髪を見て、また不思議に捕らわれる。 光の中で、健康的な光を放つ弓子の黒髪。 こんな健やかな髪を持つ生物が、心臓にかかる負担を心配するなんて。 ナンセンスもこの上ない。 俺はなんだか安心してしまって、弓子の黒髪を少し引っ張ってみたり。 「いたっ! も〜! なにすんのかなこのDV男はー!」 ムッとした顔を上げる弓子の唇に、たった今の俺の気持ちを込めてキスをする。 ずっとずっと、こんな健やかな髪のままでいて? 弓子……。 唇を離した弓子は真顔でじっと俺を見つめた。 俺も真顔で弓子を見返す。 永遠の時間が過ぎたかと思われるほどの沈黙の後。 「…わかったよ。ベーコンて昨日買ったっけ?」 「うんっ! トマトもレタスもあるから、今朝はB.L.Tにしよっ」 やったぁ、隆也のB.L.Tだぁ、などとはしゃぐ弓子の声を背に受けて、狭いキッチンに送り出される。 することしたら腹が減るのは当然の摂理である。 ベーコンを焼くぐらいなら俺にもできるからと、弓子にサンドウィッチをせがまれていたのだ。 毎朝あたしが作るのは不公平だと思う、などと押し切られて。 それでも貧乏性の弓子はベッドでじっと待つこともできずに、俺の隣に立ってあれこれ手伝ってくれる。 小一時間の苦戦の末、布団を片付けたコタツテーブルの上に、いい香りの朝食が並べられた。 「くはぁっ! さいこー!」 半分自分で作ったようなモノなのに、弓子は俺の手製だと言って幸せそうに形の悪いサンドウィッチを頬張る。 俺はその姿を見て密かに幸せになってみたり。 早起きっていいじゃねぇか。なにが心臓に負担をかける、だよ。 「やっぱ、早起きっていいよね」 にぃ、と歯を見せて笑う弓子。 俺は同意の意味で同じようににぃ、と歯を見せて笑い返した。 |