締め切り明けの昼下がり。
それまで取り掛かっていた作品から気分を変えるために、あえて人ごみの中を歩こうと思って、電車に乗った。
ターミナル駅は相変わらず凄い人の波で、平日だと言うのに色んな人たちが行き来している。
絵を描く作業って孤独だから、この世界に他人が存在することを忘れてしまいそうになることもあるんだけど。
行き来する人との接触なんて皆無だから、孤独と言えば孤独だけど、行き交う人の姿を認めるだけで、なんとなくほっとするから不思議だ。
駅に隣接する駅ビルの中をぶらぶら歩いて、ウィンドウショッピングしながら、ガラスに映る人の波を眺めていると。
「あ…」
小さなチョコレートショップだった。
カットがきれいなガラスのお皿の上に、小さなトリュフが無造作に並んでいる。
そのかわいらしさに目を奪われて、思わずショップに入ってみた。
甘い香りに出迎えられる。それだけで、なんだか幸せ。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声をかけられてそちらに顔を向けると、かっちりとしたスーツに身を包んだ女性が、トリュフの並んだショーウィンドウの前で微笑んでいた。
ガラスの上に白いお皿が並んで、その上に深い黒にも見えるチョコレートが並んでいる。
一つ一つが柔らかい光沢を帯びて、それでも自己主張は控えめに。
高級店らしく、お店の中はドアの外の喧騒が嘘みたいに静か。
お客さんもあたし以外は居なかった。
入っちゃったのはいいけど、買わないでお店を出るのがはばかられる雰囲気。
もんのすごーくお高いチョコしか売ってなかったらどーしよー。
あたしは内心冷や汗をかきながら、スーツの女性に微笑み返した。
別段、欲しいものが特定されているわけではないあたしは、ショーケースの前で立ち尽くしてしまう。
一粒三百円程度のトリュフが光沢を帯びるケースの前で、意外にも散財をしなくて済みそうなことにほっとしつつ(それでも、ここのチョコ一粒で、コンビニのチョコ三種類ぐらいお味見できそうだけど)、どれを選んでいいのか半ば呆然と思案するフリ。
「今日はどのような?」
考えているのかわからない(であろう)あたしのぼーっとした様子を見かねて、先ほどのスーツの女性がたずねてくれた。
言葉はストレートでも、物腰が柔らかいので押し付けがましくない雰囲気。
あたしはそれでスイッチが入った雰囲気で「外のディスプレイがかわいかったので、何も考えずにお店に入っちゃったんです」と素直に答えた。
「それはありがとうございます。
 あのディスプレイ、私が配置を考えたんですよ」
女性は嬉しそうに顔を崩して、あたしから外のディスプレイの方にちらりと視線を投げた。
「ここのチョコレートはどれも美味しいですけど。
 あのディスプレイに使ったトリュフは、こちらと…こちら、それからこちらです」
女性はあたしを促すようにショーケースの中のチョコを示して「一番のお勧めは、こちらのチェリーボンボンですね」と言って微笑んだ。
さくらんぼでできたブランデーに浸したさくらんぼを、チョコでコーティングしているらしい。
お酒をふんだんに使っている所が、どこか大人っぽい高級店の雰囲気で、精神年齢の低い(未成年かと思っている)あたしには、どこか憧れを抱かせるような香りがあった。
「それから…お店のお勧めはこちらです」
オレンジピールをチョコでコーティングしてある。
これは以前、他のお店でも似たようなものをいただいたことがあった。
少し苦みばしったオレンジが、チョコレートと相まってさわやかな後味なのだ。
「あとは…個人的にはこちらがお勧めです」
教えてくれたのは、先にチョコの塊の付いたスティック。
「? どうやっていただくんですか?」
スティックから直接食べるような、少し品の無い方法は使わないだろうなぁと思って聞いてみる。
女性は少しいたずらっ子の雰囲気で「これ、チョコレートドリンクなんですよ」と教えてくれる。
「飲み物ですか?」
「ええ。温めたミルクの中で、ゆっくりと溶かして飲むんです。
 粉末のチョコには無い滑らかさですし、香りもとてもいいんですよ」
彼女の幸せそうな微笑みに、つい嬉しくなって「じゃあ、これください」とオーダーする。
ついでにチェリーボンボンとオレンジピールもお味見に買ってみて、ちょっと幸せな気持ちで家に帰る。
締め切り終わったもん。
チョコは自分へご褒美、だよ。
冬の冷たい風が頬を通り過ぎるけど、小さな紙袋の中のチョコが、あたしを幸せにしていた。
 
食事が済んで、いつものように後片付けを和真と二人で済ませてから。
「由梨絵さん、今日は飲まないの?」
リビングで酒盛りをするつもりだったみたいな和真が、電子レンジでミルクを温めるあたしを見返して不思議そうに聞いた。
「うん。今日は飲まないの」
「締め切り終ったんじゃなかったっけ?」
「うん。終ったよー」
ぴろぴろとレンジが完了の音楽を奏でて、あたしは待ってましたの雰囲気で中のミルクを取り出した。
「どうしたの? いつもだったら『がんばったあたしにご褒美の日よっ』って僕にも酒飲ますのに」
怪訝そうな和真は、いそいそとミルクを取り出すあたしに少し問いただす雰囲気。
ふーんだ。こっちのほうがずっと健康的なんだから。
あたしは少しもったいぶった顔で、食器棚にしまっておいたチョコドリンクスティックを取り出した。
「なにそれ?」
和真も興味津々。
あたしはにやり、と笑ってから、おもむろにスティックをミルクの中に入れた。
くるり、とかき混ぜると、とたんにカカオの香り。
「いい匂いだね」
和真も身を乗り出してカップの香りを嗅いだ。
「和真くんにもあるんだよ」
はい、ともうひとつを渡すと、少し嬉しそうに和真もホットチョコを作り始める。
「うわ。あっという間に溶けちゃうね」
何度かかき回すうちに、スティックのチョコはすべてミルクに溶け出してしまった。
ココア色のカップをかざして「かんぱい」と促す。
和真も嬉しそうに「かんぱい」と答えて、あたしのカップにふちを合わせた。
いい香りのチョコドリンク。寒い冬は、温かい飲み物が落ち着く。
「今回のあたしへのご褒美は、チョコドリンクにしたの」
お味見に買ったチョコレート群を持って、リビングに席を移す。
夕飯直後でお腹は空いてはいないけど、美味しいものって不思議と食べられちゃうのよね。
和真もチェリーボンボンを口に入れて、お酒の強さに少し驚いている。
「甘いけど、お酒が絡むと嫌な甘さじゃなくなるね」
そう言えば、最近の和真は、少し甘いものが苦手だった。
それでも嫌そうに見えないので、あたしは「美味しい?」と聞きながらオレンジピールをつまんでみる。
ほろ苦さと甘さが一体となって、舌の上でとろけていく。
和真はあたしを見返して「うん、美味しいよ」と屈託無く答えた。
まるで、授業参観の小学生が、ママの前でいいカッコしようとしているみたいに。
あたしは思わず腕を伸ばして、和真の頭をくしゃり、と撫でる。
「なに?」
子ども扱いされるのに敏感な和真は、一瞬で少し不機嫌な雰囲気。
あたしはそれに構わずに「和真くん、かわいい」とさらに頭を撫でる。
「かわいいって」
「だってかわいいんだもん」
あたしの撫で撫で攻撃から逃れようと身を引く和真を抱き締めて、さらに撫で撫で。
和真はそれ以上抵抗するでもなく、あたしの腕の中でホットチョコレートを口に運んだ。
和真の鼻先から、チョコレートの香りが漂ってくる。
あたしはとても平和な気持ちで、和真の頭のてっぺんにゆっくりとキスをした。
テーブルにカップを戻して、和真は甘えるようにあたしの胸に顔を埋める。
すり、と頬ずりをしてから、あたしの首に腕を回してゆっくりとキスをする。
チョコレートの香りのキス。
それが少しずつ熱を帯びる。
「由梨絵さん…」
熱っぽくあたしを呼ぶ和真を見上げると、切なそうな眼差しを返された。
「もう…スイッチ入っちゃったよ」
ぐい、と、熱くたぎった場所をあたしの太ももに押し付ける。
「ベッド……行く?」
和真の視線にあたしもたまらなくなってしまって、少しねだるように聞いてしまった。
和真はふ、といたずらっぽく笑うと「僕を子ども扱いする由梨絵さんに仕返ししてあげる」などと言いながら、あたしを軽々と抱き上げた。
「和真くんっ」
慌てて和真の首に腕を回す。
和真は気にも留めない雰囲気で寝室へ足を向けつつ「今日の由梨絵さん、チョコの匂いさせて凄くかわいいよ」と、あたしを子ども扱い。
「なにそれ」
「でも、やっぱ子供じゃないね。
 このチョコ、子供の食べるチョコレートの香りじゃないもん」
言われて、思わず和真を見上げると「すっげーエロい。このチョコレート」などと言いつつにやり、と笑った。
ぞくん。
最近、こんな笑顔にかなり色気が出て来た。
あたしはどぎまぎと視線を逸らせて、今更ながら速いテンポの自分の鼓動を持て余す。
「ちょっと早いけど。
 本当のバレンタインの日にも、僕のためにエロいチョコレート買ってきてね」
今日はプレバレンタイ、と言いながら、あたしをベッドに横たえる。
そのまま…。
チョコのように溶け合うみたいなキスが降ってくる。
絡める舌先から、熱い吐息とともに、チョコレートの甘い香りが立ち上る。
そっか。もうすぐバレンタインなんだ……。
あたしはぼんやりと思い出しながら、和真の指先に体を熱くさせられていく。
バレンタインにも、チェリーボンボンを買って来よう……。
うわごとのように和真の名前を呼びながら、あたしはもうすぐ訪れる恋人たちの祭典に、やっぱりあのチョコレートショップのチョコを選びに行こうと、またしてもぼんやりと考えていた。

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