「由梨絵さん…」
苦しい呼吸の狭間で、和真は熱っぽくあたしを呼ぶと、きつく抱きしめて来た。
「和真くん…? どうしたの?」
髪に指を通して聞くと、和真は甘えるようにあたしの頬に自分の頬を摺り寄せる。
まだ髭の生えない頬で、子供のように甘える和真。
「…急に怖くなったんだ。
 僕って変だよね」
自嘲を含んだ口調で、自信なさ気に囁く。
「怖いって?」
和真は一瞬口ごもってから「なんとなく。すげー幸せって思ったら、急に怖くなっちゃった」などと言って、もう一度あたしを抱きしめる。
「…こんなに幸せだから、由梨絵さんがいなくなったらどうしようって考えて怖くなったのかも」
「……馬鹿ね」
和真を抱きしめ返して言うと、小さくため息をついてから言葉を無くしてしまう。
「試験の出来が悪かったの?」
そう言えば。今日は模擬試験を受けて来たんだっけ。和真は。
思い当たることなんてそんな事しか浮かんで来なかった。
和真は少し心外な雰囲気で「そんなこと無いよ。僕の努力で防げる失敗は、今のところしてないから」などと自信満々の答え。
この年でこんなに自信家だなんて。鼻持ちならないわね。
ま、若いから自信家なのかもしれないけど。
「僕が努力すればいいだけだったら、いくらだって努力するよ。
 由梨絵さんがずっと元気で僕のそばに居てくれるために」
「失礼ね。あたしは元気です」
「今はね」
ずきん、と、胸の隅が小さく痛んだ。
和真は思いのほか真剣な面持ちであたしを見つめながら「僕が不安なのは、ずっと先のことだよ」と小さな声で、あたしに言い聞かせるように言った。
「先の事なんて、これからどんな風にでも変わっちゃうわ。
 不安に思うなんて、ナンセンス」
「…それには僕も同意なんだけど。どうしてもね」
ふ、と微笑みを浮かべて、天井に視線を向ける。
「この部屋に帰って来たら、外はすごく寒いのに、由梨絵さんが転寝してても風邪をひかない程度にあったかかったから。
 ものすごくホッとして、カウチに寝てる由梨絵さんをしばらく眺めてたんだ。
 平和な顔して寝てるなぁと思ったら、すげーしたくなっちゃって。
 その時は由梨絵さんもぐすっり寝てるみたいだったから何とか我慢したけど、ベッドに入ったら僕が言うとおりに由梨絵さん、してくれるから。
 僕が思ったとおりに感じてくれるし、すげー欲しがってくれるし、だから、ずっと続けばいいって思ったら…なんか」
「そう言う不安はね、誰だって感じるのよ」
和真の頭を抱きしめて言うと、素直に預けて来た。
あたしは和真の髪に指を通すように撫でながら、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「失うかもしれないって怖さは、失うものが大きければその分大きくなるでしょう?
 でもね、そうやって不安に負けちゃって変化するのが怖いって何もしなければ、人間て、進歩も成長もしなくなっちゃう。
 変わらない環境って気持ちいいもの。
 和真くんの感じてる不安は、万人共通だと思う。
 でも。
 高校生が感じるには、少し後ろ向き過ぎない?」
「僕の変化が怖いんじゃなくて、由梨絵さんの変化が怖いんだよ」
ムッとしてあたしを見返す和真は、少し悲しそうな眼差し。
「なによ。今すぐにでも老衰で死んじゃうお婆ちゃんを見るみたいに」
「そ、そういうつもりは無いけど」
慌てて言い繕う和真の頭を抱きしめる。
そうしながらあたしは、和真の不安を共有していた。
和真とこうなる前に感じていた、和真を失う恐怖。
今はあの時程ではないけれど、やはり、和真があたしを捨てる瞬間を、いつも覚悟しながら恐れている。
でも、だからこそ。
今この一瞬が、とてつもなく大切になる。
和真と過ごす、愛に満ちたと思える一瞬一瞬が。
「ねぇ、和真くん」
「ん?」
あたしに甘えるように擦り寄る和真に、静かに声をかける。
和真は眠たそうにも見える雰囲気で、夢見るように返事をした。
「シチュー、食べようか。
 お腹空かない?」
一瞬、絶句したようにあたしを見返して、直後面白そうに吹き出した。
「えっちの後にご飯だなんて。
 由梨絵さんてつくづく野生だよね」
「なによ。野生って」
箸が転がっても面白い世代は放っておきましょ。
あたしは手近にあったシャツを羽織って、ベッドルームを後にした。
「いい匂い」
数分遅れてキッチンに入って来た和真は、シチューの香りに誘われるように、鍋に歩み寄る。
「和真くんこそ、お腹空いてたんでしょ?」
「うん。そうみたい」
イタズラっぽいキスをしてから、切ったバケットをトースターに入れる和真。
鼻歌交じりの彼に、味を調えたシチューの味見をさせる。
「僕、由梨絵さんのシチュー大好き」
満面の笑みの和真を見返して、和真があたしの息子だったら、と想像する。
生意気だけど、こんな風に手料理を手放しで気に入られたら、それはそれで、嬉しいだろうし、幸せだと感じるだろう。
でも。
息子のような和真は、あたしの息子ではない。
対等のパートナーとして考えたとき、この状況は、そう悪くはないな、なんて思ったりして。
和真を息子として扱うよりも、パートナーとして扱う方が、あたしの中では余程しっくりいく。
シチューの湯気の向こうに、幸せそうに微笑む和真を見つける。
こんな、他愛も無い日常。
その日常がいとおしくて、あたしも幸せな微笑みを浮かべた。

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