「それじゃ、今日は百十二ページからでしたね」
え?
先生が持った教科書の背表紙に、見慣れない銀色のリングをした薬指があるのを、あたしは驚きと共に見つけた。
左手の薬指。
それって…それって……!
驚いたのはあたしだけじゃなかったみたいで、斜め前方に座るユイナも、こっそりあたしを見返して目を見張ってる。
あたしも驚いた顔を返して、もう一度、セラの指に光るリングを確認した。
セラはうちの学校の名物教師だ。
理事長先生の癖に、英語の授業を全学年一クラスずつ持っている。
理事長とは言っても、校長先生(あたしたちが一年の時は教頭先生だった)の方が偉そうなんだけど。
実はセラは、先生になる前に、地元のインディーズでヴォーカルを取っていて、あたしはおねえちゃんの影響で、小学校の頃からセラのファンだった。
ユイナも同じようなもの(ユイナはおにいちゃんの影響)で、あたしたちは入学した時から、同じ価値観を共有する仲間だった。
すなわち。
GBのセラ大好き連盟。
あたしがまだ中学に入りたてのころ、セラは突然GB(Goddess Breathって、例のインディーズバンド)を抜けちゃって、ファンの間では消息不明になっちゃった。
でもまたしても突然、雑誌のインタヴューに答えて、この学校の先生してるって公表したんだ。
あたしはその事実を知って、密かに両親に工作し、この学校の受験資格を手に入れた。
合格が決まったときの、おねえちゃんの悔しがりようったら!
生まれて初めて、姉に対して優越感を持てたのよ。そんときのあたし。
入学して、すぐにユイナと仲良くなって、あたしたちは世良先生というより、セラに会うために毎日学校に通っている。
当然、セラは学校の中では王子様的存在だけど(だって。教壇の上じゃ、ちょー育ちが良さそうなノーブルな雰囲気なんだから)、うちの学校の大半を占めるお嬢様連中がお騒ぎになるのとは、少しずれた感覚で、あたしとユイナはGBのセラをオッカケていた。
なにしろ、あたしたちの中じゃ、世良先生って言うより「セラ」なんだもん。
おねえちゃんが夢中になって見ていたライブDVD。
あたしはそれを、少し後ろめたい気持ちで見ていた。
子供のあたしが見てはいけない映像のような気がして。
それほど、GBのセラは、子供にすら感じられる色気があった。
もちろん、今教壇の上に立っているセラからは、そんな色気は香って来ないけどね。
「んー、今日は出席番号偶数からだよね?
 じゃあ…武本さん。
 百十三ページの終わりまで、読んでもらえますか?」
セラは、にっこりとプリンススマイルで、あたしをはっきりと指名した。
き、教科書開くの忘れてるよ! あたし!
慌てて指定されたページを探し当てて、がたり、と椅子の音を立てて立ち上がる。
セラの授業はばっちり予習してるんだ。
ほぼ完璧に読みこなすと「授業が始まったら、教科書に集中してね」と、いつの間にかあたしの席のすぐ隣に近寄っていた世良先生に小声で注意を受けた。
立ち上がってるあたしのすぐ耳元。
多分、あたしにしか聞こえないぐらいの声で。
それでも、あたしの鼓膜はセラの声を手放さなかった。
「Excellent.いい発音でした。
 結構ですよ。武本さん、おかけください」
言われて、あたしは普段を装って椅子に腰をかける。
心臓ばくばくの状態で。
鼓膜に触れた声は、紛れも無いセラの声だった。
やだぁ…授業に集中なんて、できないよぅ……。
それからの授業は、おねえちゃんの隣でドキドキしながら見た、GBのライブ映像が目の隅っこにチラついて、内容なんて全然頭に入ってこなかった。
予習しておいて良かったぁ。
授業終了のチャイムが校内に鳴り響いて、セラとの夢のようなヒトトキが終わりを告げた。
例によって質問と言う名の取り巻きお嬢ちゃん捌きタイムを難なくこなしているセラを、ぼーっと見返す。
あたしも質問に並ぼうかなぁ。
そして言うんだ。
『先生、その、左手薬指のリング、どうしたんですか?』
「ちょっと、みどり〜!」
ユイナが興奮した面持ちで、あたしの前の席に横座りする。
「セラったら、なんで突然指輪なんてしてくるの?」
「知らないよ。あたしはセラじゃないんだから」
それよりも、授業中に耳元で囁かれた声が耳の奥に蘇った。
『授業が始まったら、教科書に集中してね』
きゃ〜〜〜!!
「みどり?」
一人の世界に飛び立とうとするあたしを、ユイナの覚めた声が引き戻す。
内心舌打ちしつつ「なあに?」なんてにっこり。
「セラってさ、カズの妹のモデルと付き合ってるって噂、なかったっけ?」
珍しく思案気なユイナを見返して、はたと気付く。
そう言えば。その妹、この学校の卒業生だ!
「そうだよね! あたしたちが入学する前だから、詳しくわかんないけど」
「まだ付き合ってるのかな。その人と」
「えー? でも、その人、最近ほとんど雑誌で見ないよ?」
「だからー! 専業主婦でぇ」
…!
ユイナの言葉に愕然とした。
セラが結婚?
カズの妹(と言ってもあたしたちの先輩だけど)と?
「ショック〜〜! もう子供もいたりしてね」
気の早いユイナの言葉に若干赤面しながら、「何言ってるのよ、も〜〜」などと答えつつ、内心はドキドキしていた。
だって…セラが、結婚……?
「ちょっと聞いて来る!」
立ち上がるユイナを見返すと、セラは質問の列を捌き切って教室を出てしまっていた。
「ユイナ! 次の授業が始まっちゃうよ」
慌ててユイナを制して椅子に座らせ直す。
もー、ホントに思い立ったら即実行なんだから。ユイナは。
「だって、気になるじゃん」
「そうだけど、昼休みだっていいでしょ?」
「え〜〜? その間、ず〜っとわかんないまんまで気にしてるの〜?」
やーだやーだやーだーって……。
「わかった。もう止めない。
 行って来るが良い」
「えー? みどりも来るでしょ?」
へ?
「だって、授業…」
「そんなの、セラの指輪の方が重要だよっ!」
あたしの腕をぐい、と引っ張って、ユイナは無理やりあたしを立ち上がらせた。
確かに、次の授業は現代文だし、一回ぐらいサボったってどうにかなるか…。
あたしは『仕方が無いなぁ』って雰囲気でユイナを見返しつつわざとらしくはぁ、と溜め息をついてから、セラを探しに職員室へ向かうユイナに手を引かれて足を動かした。
「あれ? セラ、いない…」
職員室は、がらん、としていた。
当然だよね。もう授業時間始まっちゃってるもの。
「理事長室じゃない?」
あたしが促すと「そっか」とユイナも納得顔。
理事長室の前で、ドアをノックしようと……
「君たち、授業は?」
背後から声をかけられて、驚いて顔を向ける。
そこには、校長先生が立っていた。
「あの…世良先生に、質問が……」
「質問は休み時間にしなさい。
 もう授業が始まっている時間だと思うが?」
校長先生、おっかない雰囲気なんだよねぇ。
「はい…すみません」
強引なユイナも素直に謝ってしまった。
「どうしました?」
あたしたちの様子に気付いてくれたのか、理事長室からセラが顔を出す。
セ、セラ〜〜。助けて〜〜。
「この子らが、君に質問があるそうだよ」
むっとした雰囲気の校長先生の言葉に「ああ、ゴメンね。今の休み時間、質問が多かったから答えそびれちゃったかな」なんて、あたしたちを弁護してくれる。
セラ。やっぱ優しい!
「けど、次の授業がもう始まっちゃってるよ。
 昼休みに必ず答えるから、良かったらもう一度理事長室に来てくれるかな」
「…はい」
瞳をハート型にしたユイナが、セラを見上げて小さく頷く。
出た〜〜! 王子様スマイル!
「先生、僕、この子達を教室に送って来ます。
 打ち合わせ、十五分後からでお願いできますか?
 校長室へ伺います」
苦笑気味のセラが、校長先生に頭を下げる。
「そうですね。授業の途中参加を許していただかないといけませんからね」
校長先生もやれやれ、と言った雰囲気で、あたしたちを見返してから「では、声をかけてください」と言って、職員室に入って行った。
「行こっか」
あたしたちを促すセラを見上げて「あのっ」と声をかけてしまう。
隣でユイナが息を呑む雰囲気。
どきん、どきん、どきん……
心臓が耳の奥にあるみたい。
心音がいつもよりも大きい。
「どうしたの?」
少し困ったようなセラの微笑みに、その後の言葉が出てこない。
口を開いたら、そのまま心臓が出て来そう。
「先生、指輪、どうしたの?」
あたしの代わりに、ユイナが聞いてくれた。
セラは更に困ったように微笑んで「やっぱ、英語の質問じゃないんだ。教科書持ってないから、おかしいなと思ったんだ」なんて砕けた雰囲気で答えた。
授業時間の廊下には、あたしたち以外に人影も無くて。
沈黙がセラの答えを待っているみたい。
セラは小さく溜め息をついてから「歩きながら話そう」と言って、先に立って歩く。
あたしとユイナは顔を見合わせて、セラの後を付いていくように足を動かす。
「指輪の質問、今日これで四回目だよ。
 そんなに気になるかな」
はぐらかす雰囲気のセラに「気になります」と、間髪居れずに答えた。
あたしの様子に、セラは苦笑気味に「そうなんだ」なんて軽く流す。
「だって、先生、今まで指輪なんてしてなかったじゃん」
ユイナが咬みつくように言うと「授業中だから。静かにね」などと、たしなめながら人差し指を口の前に立てた。
どきんっ!
マイクの前で歌うセラの雰囲気。
あたしは、またしてもおねえちゃんの隣で見ていたGBの映像を頭に蘇らせて、心拍数を密かに上げていた。
「指輪について、だったら、今までしていなかっただけ。
 実は俺、もうかなり前に結婚してるんだよ」
え゛?
セラの爆弾発言に、ユイナと同時に足を止める。
け、結婚?
「誰と? カズの妹と?」
「良く知ってるね。そうだよ」
あっさりと認められて、呆然としてしまう。
カズの妹って…。この学校の卒業生の……。
セラはちょっとはにかむように微笑んで、あたしたちを見返した。
こんなセラ…。初めて見た……。
照れ臭そうにも見えるけど、どうしても嬉しいって気持ちを抑えられない雰囲気。
セラってあたしよりずっと年上なのに。
この時のセラは、ものすごく幼く見えた。
まるで、百点の答案を得意気にママに差し出す、小学生の男の子みたい。
「香織は、この学校の卒業生なんだけど。
 俺たち、香織が卒業した年の謝恩会で付き合うことになってさ。
 そのまま香織はイギリスに行っちゃったから、ずっと遠恋だったんだけど。
 香織が帰国して、海外に行ったり来たりでも拠点を日本に移すことになったから。
 去年の冬、籍を入れたんだ」
ゆっくりと歩きながら、小さな声で教えてくれる。
セラと、カズの妹との、恋の顛末。
セラは話しながら、時折薬指に光る銀色のリングに視線を落とした。
その視線はとても幸せそうで。
本当の恋なんて、まだ知らないあたしですら、セラが本当にカズの妹のことを愛しているんだって、わかってしまう。
ずき…ん……。
セラにこんな風に思われる、香織って…
すっごい、羨ましい……。
あたしは、あたしの中に発生した感情の渦が、嫉妬なのか羨望なのか、それとも単なる憧れなのか、推し量れずにいた。
「でも、何で急に指輪なんかしてきたの?」
ユイナの質問に、は、と顔を上げる。
そうだよ。そんなに前に結婚してるんだったら、どうして今まで指輪をしないでいたの?
なんとなく、セラがずるい気がして、何故か一生懸命セラを見返してしまう。
指輪をしないで、生徒の恋心をもてあそんでた訳じゃないでしょうね?
香織だって、セラの教え子なんでしょ?
セラはいたずらっ子みたいに微笑むと「もう隠す必要が無くなったからね」なんて、秘密を隠す雰囲気。
「なんで?」
「ほら。教室。
 今、現代文みたいだね。
 石井先生で良かったね」
セラはユイナの質問に答える気も無い雰囲気で、あたしたちを振り返って小声で言った。
そのまま、教室の前のドアをノックして「石井先生、スミマセン」と、現代文の石井先生を呼んだ。
石井先生は、中年の少し恰幅のいいお母さんみたいな先生だ。
廊下に出てきた石井先生に「スミマセン、この子達、僕の質問の答えが長くなっちゃって、先生の授業にまでかかってしまって」などと、深々と頭を下げた。
「途中から申し訳ないのですが、授業に参加させていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ。
 まだほとんど進んでいませんから」
にこやかにそう言うと、「後ろのドアからいらっしゃい。今までのところ、簡単に説明しましょうね」などと、あたしたちを教室に招き入れる石井先生。
「ありがとうございます。
 じゃあ、ごめんね。遅くなっちゃって」
セラは石井先生にもう一度頭を下げた後、あたしたちに小声で謝って小さく右手を挙げた。
「行こ? みどり」
ユイナに促されて、後ろのドアに足を向ける。
教室に入るときセラをもう一度見返ると。
かすかに微笑みながら、左の薬指のリングにキスをするセラを見つけてしまった。
『…セラ、どうして急に指輪なんかしてきたんだろう……』
教室に戻ったあたしは、石井先生の優しい声を聞きながら、セラのことを考えていた。
『あんなに幸せそうなのに……。
 結婚してるの、隠してたってことでしょ……?』
どんなに考えても、あたしの中には答えのかけらも存在しなくて。
そのうちに石井先生の出した設問を解くのに夢中になって、いつの間にかセラのことは忘れていた。
その日の夜。
家に帰って、ユイナとかその他セラファンの人たちとLineでつながるのが、あたし達の習慣だった。
この時もスマホの画面に他愛も無い言葉をつらつらと連ねていたんだけど。
『ちょっと! テレビ観てる?』
ユイナの慌てたみたいな呼びかけに『観てないよ』と答えると『カズの妹が出てる!』と教えてくれた。
うそっ!
慌てて部屋を出て居間に入ると、おねえちゃんがそのテレビをしっかり観ていた。
カズの妹(柴田香織って言う、海外の方が有名なモデルだって)は、中堅どころのお笑い芸人に告られるって内容で出て来ていた。
少し困ったような微笑みを浮かべて、香織(そう言えば、セラはそう呼んでた)はお笑い芸人の読むラブレターを聞いている。
「それでは柴田香織さん、お返事を、どうぞ!」
司会の大物芸人に促されて、香織は意を決したように口を開いた。
「実は私、結婚してます」
「マジか!」
おねえちゃんが素っ頓狂な声を上げる。
「この子が結婚てことは、相手は当然…」
「そうだよ。セラだよ」
あたしの方を伺うおねえちゃんに、神妙な顔で同意する。
「今日、セラが左の薬指にリングして来てさ。
 なんで? って聞いたら、結婚してるの隠さなくて良くなったからって。
 このテレビがあったからなんだね」
スマホとテレビとおねえちゃんを同時に相手しながら、あたしは目まぐるしく日本語を操っていた。
って…え?
「げ〜〜〜〜!!!!
 これ、セラじゃない???」
おねえちゃんの絶叫を聞きながら、思わず言葉を失ってテレビを凝視しちゃう。
セラが、テレビに出てる!!
幸せそうに王子様スマイルを浮かべながら。
昼間に見た笑顔。
百点の答案を得意気にママに差し出す、小学生みたいなセラ。
そんな幸せ全開な笑顔で、香織を見つめている。
あたしはセラのその表情を見て、なんとなく安堵している自分を見つけて密かに焦っていた。
あたし! セラの幸せで和むって、なに?
当然これ、リアルじゃなく、録画なんだろうけど。
さっき見た、薬指のリングに幸せそうにキスするセラと、小学生みたいなセラと、テレビのセラが、あたしの中に重なってなんだかほんわりした気持ち。
ホントに、この番組が今日放送だから、セラ、指輪して来たんだ……。
「や〜〜、参った参った。
 前からあの二人、くっついてる感じだったけど、結婚しちゃったんだぁ」
え?
おねえちゃんに顔を向けると「ん? ライブハウスで、引退したセラとこの子、良くキスしたりしてたんだ」なんて涼しい顔。
「あたしがライブハウスによく行ってた頃、この子も結構雑誌に載っててさ。
 そん時はセラが高校教師だって知らなかったし、この二人が同じ学校の関係者ってのも知らなかったけど。
 雑誌に載るモデルって事は、スキャンダルもいけないかなと思って。
 セラの彼女だからって、みんな見て見ぬふりしてたんだよね。
 セラとの噂でこの子が潰されちゃったら、セラが悲しむって。
 だから、ロンドンでこの子が成功してるのとか、結構追いかけてたんだよ」
おねえちゃんの言葉に、目が丸くなっちゃう。
「あー、まぁ、あたしがカズ派だから、妹の事は悪く言えないのもあるかもねぇ」
缶ビールを飲みながらおねえちゃんは、手をつないで画面から歩き去るセラと香織を、満足そうに見送った。
「セラも幸せになったんだぁ。良かったぁ。
 GB辞める時なんか、この世の終わりみたいな顔してたんだけど」
あたしの知らないセラ…先生。
いろんな事を乗り越えて、そんな幸せそうな顔をできるようになったんだよね?
細々としたことなんか想像もつかないけど、あたしは何故か、心から嬉しくなって、ソファーの背もたれに体を預けた。
スマホには、さっきから目まぐるしく言葉が流れていく。
でもなんだか全部がうっとおしいだけに感じて、あたしはユイナにメールを送った。
『おねえちゃん情報
 香織って、なんかずっと前からセラと付き合ってたんだって。
 やっと幸せになれたって、おねえちゃんもホッとしてる。
 ユイナのお兄ちゃんは? ホッとしてたら、セラを祝福してあげよう?』
間髪居れずにユイナから返事。
『さっきから兄貴が大騒ぎで。
 めでたいから祝杯だって、コンビニにお酒買いに行っちゃった。
 あの二人は公認だったんだね。
 明日、二人でお祝いに行こう!』
スマホの画面を見て、今までで一番、ユイナとつながってる感じがして震えた。
明日、二人でお祝いに行こう。
きっと満面の王子様スマイルの、世良先生に。

Index   HOME    Contact

inserted by FC2 system